沖縄の米軍基地ができた歴史的背景
豊かな自然と独特な文化を有する沖縄は、太平洋戦争において、史上まれにみる熾烈な地上戦が行われ、「鉄の暴風」と呼ばれたほどのすさまじい砲撃により、緑豊かな島々は焦土と化しました。
沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました。
日本本土では昭和31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」とされ、高度経済成長が始まりましたが、ちょうどその時期に、本土の米軍基地の整理縮小の流れを受けて、本土から沖縄に海兵隊の移転が進みました。
戦後、沖縄は、昭和47年(1972年)の本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施設権下にありました。本土復帰後も、本土では基地の整理縮小が進む中、沖縄には多くの米軍基地が日米安全保障条約に基づく提供施設・区域として引き継がれ、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています。
米軍統治下における沖縄の状況
戦後すぐの昭和20年(1945年)から昭和24年(1949年)までの5年近く、本土では戦後の復興政策が図られる中、沖縄はほとんど放置状態で「忘れられた島」と言われました。これは、アメリカの軍部と政府側の調整に時間がかかり、明確な統治政策が図られなかったためです。
その後、昭和24年(1949年)5月にアメリカ政府は沖縄の分離統治の方針を決め、昭和25年(1950年)2月にGHQが沖縄を恒久的基地を建設する声明を発表し、沖縄の分離統治を決定しました。この時から米軍による沖縄の基地化が進んでいきました。
昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条により日本は独立国としての主権を回復しますが、その代償として、沖縄は日本本土から分断され、米国の施政権下に置かれました。沖縄には日本国憲法の適用もなく、国会議員を送ることもできませんでした。
また、米軍の施政権下におかれた沖縄は、27年もの間、日本政府から十分な支援を受けることができませんでした。その結果として、昭和47年(1972年)に本土に復帰した時の沖縄は、道路、港湾、学校、病院、住宅など社会資本のあらゆるものが不足していた状況でした。
沖縄にある米軍基地の状況
沖縄県には、31の米軍専用施設があり、その総面積は1万8,609ヘクタール、沖縄県の総面積の約8%、人口の9割以上が居住する沖縄本島では約15%の面積を占めています。その規模は東京23区のうち13区覆ってしまうほどの広大な面積です。
沖縄が本土に復帰した昭和47年(1972年)当時、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄県の割合は約58.7%でしたが、本土では米軍基地の整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%が集中しています。(平成29年1月1日現在)
※ 米軍専用施設…自衛隊が管理する共用施設とは異なり、専(もっぱ)ら日米地位協定のもとで管理、運営され、基本的にはその運用に国内法が適用されず、また、立ち入り許可なども米軍の裁量によりなされる施設
※ 本ページで記載している面積、割合等は米軍専用施設のものであり、米軍が自衛隊等の施設を一時使用(共同使用)している面積は除いています。